こんにちは、のすけです。
私には、解決できていなかった自分の課題がありました。
それは、「自然体で気をつかう」ことです。
自然体で気をつかえる人間は超かっこいい。
そんなことの本質を考える機会がありました。
気をつかうことというのは、悪いことではありません。
私は、ずっと間違えた気のつかい方をしていたのです。
勤めている学校で、こんなことがありました。
教室で、クラスの窓側最後列がお休みの多い生徒の席でした。
そのすぐ後ろに大きな荷物が置いてありました。
「おや?」と思いました。
その生徒の席は椅子を引けるような状態ではありません。
明らかに、その子のものでもありませんでした。
私が「おや?」と思ってしまったのは、
お休みの多い生徒が学校に来てこれを見たらショックだろうと思ったこともありますが
何より、
それを「何も考えずに物を置いてしまう気持ち」がとても残念でなりませんでした。
人によっては、
「そんなこと。来たらどかせばいいじゃないか」
と考えるかもしれません。
しかし、クラスの教室環境というのは
面白いくらいに、生徒の心の環境と比例しています。
そして、
「ま、このくらいいいか」
と、そのままにしたことが
重なり、また影響し合い
気付いた時には、取り返しのつかないくらいにクラスが荒れるということは珍しくありません。
クラスの教室環境が汚いか、それとも生徒の心が荒れているのか
どちらが先かはわかりませんが、
100%に近いくらい、
荒れているクラスは、教室環境も荒れています。
床にゴミやプリントが散乱し
机や椅子もガタガタで、あっちこっちの方向に向く状態、、。
だからこそ、友達の席を塞ぐように荷物を置くことは
小さいようで、とても大きなことだと私は思っているのです。
「これは誰のだろう?」
と私が聞いてもよかったのですが
是非とも担任の先生が気づいてほしいことでもありました。
その日の退勤の時間が近づき、
だんだんと
「あれで落ち着いているということは担任の先生は気づかないだろうな。まぁ、いいか」
と思ってしまう自分に
「ん?今何を考えている??」
と自分に問いかけました。
「俺がこんなこと言ったら、
そのクラスの担任の先生はいい思いをしない」
という考えでした。
気をつかっているつもりです。
しかし、
その考えを掘り下げると
「いい思いをしないから、俺は疎まれるだろうな。」
と、無意識のうちに、自分のことを考えていることに気が付きました。
はい?
自分がどう思われるかってことを考えていないか?
自分にベクトルが向いていたんですよね。
自分で自分が情けないですが
これって、本当に意識して考えていることではなくて
昔からずっとこうやって、空気をめっちゃ読みながら
自分の意見を隠しながら生きてきて
もう無意識的に考えいることなんです。
すごく恐ろしいですよね。
そういう方って結構いるんじゃないかなと思うのです。
行動の根本的な場所には
「こう思われないかな、どう思われるかな」
ということが渦巻いていること。
自分は、違うと思っても気づいていないだけかもしれません。
今回のことは、本当はシンプルで、
「生徒自らが気づけるようになってほしい。
そして、担任の先生にも気づいてほしい。」
それだけなんですよね。
自分がどう思われるとか、ほんとどうでもいいんです。
このまま言わないのは、
生徒の心を育てることを放棄したのと同じ。
その先生は気づいていないのであれば、
この先もそのままにするだろうと思いました。
そもそも
「どう思われるか」を考えて「気をつかう」のは
間違った気のつかい方ですよね。
「気をつかえる」というのは、
「気を相手に与える」ということなので
そこに自分への評価は関係ありません。
自分の言いたいことも
「これを言ったら変な空気になるし、変に思われる」
と気をつかって、自分の意見を言わないなど
これは決して、気をつかえているわけではありません。
私は、ずっと、気をつかっていない人の方が
人とのコミュニケーションが上手い(気に入られる)のは
なぜなんだー!!と思っていました。
しかし、これは気をつかっていないのではなくて
「気をつかう」ことがとっても自然体で、
しかも、相手に対してベクトルが向いている人が
コミュニケーションが上手いだけだったのです。
人目を気にする、人の評価を気にするような状態は、
自分に意識が向いていて
「自分が自分が」というような「我」が出ている状態です。
我が出ると、
”こうあるべき自分”を作り出し、
本当の自分は何なのかよくわからなくなり、
自然体でいられなくなります。
この『自然体』というのがこの肝になってきます。
悪夢ちゃんというドラマがありましたが、
その1シーンの中に、小学校のクラスの同級生が
クラスの空気を読みすぎて、顔がのっぺらぼうになるシーンがあります。(悪夢の中の話)
まさに、本当の自分がわからなくなって自然体でいられなくなった状態です。
悪夢の中だけでなく、実際に
おかしくもないのに、集団の中でヘラヘラと笑うその子に
先生役の北川景子が
「空気を読んで笑うな!!!」
と叫ぶんですよね。
私は、このシーンを見た時、
自然に涙が出てきたのをすごく覚えています。
その時は、あまりわかりませんでしたが
思い出すと、自分がどれだけ空気を読んで
気をつかって笑うことに辛さを覚えていたのかがわかりました。
”こうあるべき自分”というのは
過去の経験から作り出していることが多いです。
悪夢ちゃんの子どものように空気を読んで笑うことによって
友達の輪に入ることができた経験があれば
自分を隠すようになっていくでしょう。
過去の経験が
こうあるべき自分を作り出し、自然に振舞うことができなくなる。
性同一性障害である私も
女を演じる癖がついていましたし、
何かあっても
笑ってその場を凌ぐようにしていました。
女を演じなければいけないという思いが邪魔をして
自然体で接することがなんなのかわからなくなったと思います。
では、どうやって自然体で気をつかうことができるのかは
とってもシンプルなことです。
人のためだと思ったことは、
自分視点の考えをなくした上で実行していくことです。
しかし、先ほども言ったように無意識に自分視点になることがあります。
最初のうちは、気をつかって
何かをしない選択、もしくは、何かをする選択をしようとした時に
まず
「待てよ、これは相手のためにしていることか、
自分のためにしていることか」
と考える機会を設けることです。
そのような習慣をつければ、
「こう思われたくない、こうしなければ」
などの必要のない感情が少しずつ浮き上がってくるはずです。
私は、これからも
「おや??」と自分で思ったことを
自分視点の気のつかい方で押さえ込もうとしてしまう自分を
見つめる習慣をつけていこうと思います。
しかし、ここで
それに気づいたとしても行動に移せないことだってありますよね。
今回の私のように、自分のクラスのことについて他の人から言われるのは
あんまりいい気がしない先生の方が多いです。
その時は、私は、
まず一旦自分が今まで「できるかもしれないけど、できるかどうかわからない」と思っていたことを
「できること」に変えてみるようにしています。
色で例えると、
やってはいけないこと→黒
できるかもしれないけど、できるかどうかわからない
もしくは、相手が嫌な思いをするかもしれないこと→グレー
できること→白
のイメージです。
人によっては、この白のゾーンが多い人もいると思うのですが
私は極端にグレーゾーンが多いんですね。
気をつかって挑戦してこなかったので、
実際どうなるかわからないというグレーゾーン。
指原莉乃や若槻千夏のようなコミュニケーション能力に長けた人たちは
このグレーゾーンを白にすることをめっちゃやっています。
すっごい偉い人、大御所に対してタメ口を聞いてみたりとか、、、
そこで、ダメだったら黒にすればいいだけなんですよね。
でも、自然体で気をつかえている場合、
そんなに嫌な思いをしないのが現実なわけです。
だからこそ、
どんどんグレーゾーンを白に変えていくことをやっていこうと思うんです。
どうしても
こう思われやしないか、、と考えてしまいますが
そこは「待った」をかけて
グレーを白に一旦変えてみる。
そういったことを繰り返していくうちに
自然と自然体である自分になっていくんではないかと考えています。
黒、グレー、白の考え方はいろんなことに応用できて
無理だと思っていたことに挑戦できる考え方でもありますので
参考にしてみてくださいね。
それでは!